アニエス・ヴァルダの1975年のドキュメンタリー『ダゲール街の人々』に出てくるパリの個人商店で働く人たちが、19世紀か20世紀初頭に生きている人の顔みたいだった。
こちらはパン職人とマダム。
アニエス・ヴァルダの1975年のドキュメンタリー『ダゲール街の人々』に出てくるパリの個人商店で働く人たちが、19世紀か20世紀初頭に生きている人の顔みたいだった。
こちらはパン職人とマダム。
夢野久作の小説『ドグラ・マグラ』の絵を描くためのプチリサーチ(2)
◆キング・オブ・キングス
「空前絶後の遺言書」の中で、正木博士がスクリーンに登場して演説する場面に「キング・オブ・キングス」というスコッチ・ウイスキーが出てくる。
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アハアハアハ。イヤ失敬失敬。わかったわかった……拍手は止してくれ給え。形容詞ばかり並べて済まなかった。どうもアルコールが欠乏して来ると、アタマの反射交感機能が遅鈍になるのでね。チョット失敬してキング・オブ・キングスの喇叭を吹してもらおう。
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せっかくの固有名詞なので、ぜひ絵の中に登場してもらおうと思い、1920年代のボトルを検索したけれどなかなか出てこない。キング・オブ・キングスは現在は生産されていませんが、1960年代〜1980年代のボトルはたくさん出てきます。古そうなボトルの写真が出てきても、年代のクレジットがないのがほとんどなので1920年代のものかどうか分からず。
そもそも、キング・オブ・キングスはスコットランドから輸入したウイスキーなのか。それとも国産でそのような名前のウイスキーが存在していたのか。
サントリーのホームページによると、初の国産ウイスキーは1929年(昭和4年)発売の「サントリー」で「白札」と呼ばれたそうです。正木博士がキング・オブ・キングスの喇叭を吹したのは、1926年(大正15年)なので、まだ国産ウイスキーは発売されていなかったことになります。正木博士はオーストリア、ドイツ、フランスに留学し、ハバナの葉巻を吹かしたりするなどハイカラ趣味なので、どちらにしても輸入ウイスキーを愛好しそうな気がする。
スコットランドのリースでJames Munro & Sonにより作られていたキング・オブ・キングス(Munro’s King of Kings)は、20世紀初頭にはアメリカに輸出されていたみたいです。日本に輸入され始めたのはいつか分からないけど、大正時代には既に入ってきていたのでしょう。
林芙美子の『放浪記』(1928年)にもキング・オブ・キングスが出てくる。
「キング・オブ・キングスを十杯飲んでごらん、十円のかけだ!」
どっかの呑気坊主が、厭に頭髪を光らせて、いれずみのような十円札を、卓子にのせた。
「何でもない事だわ。」私はあさましい姿を白々と電気の下に晒して、そのウイスキーを十杯けろりと呑み干してしまった。キンキラ坊主は呆然と私を見ていたけれども、負けおしみくさい笑いを浮べて、おうように消えてしまった。喜んだのはカフェーの主人ばかりだ。へえへえ、一杯一円のキング・オブを十杯もあの娘が呑んでくれたんですからね……
また、1927年開業の銀座のカフェー、クロネコのメニューにキング・オブ・キングスが載っている。
(写真は後日アップ)
文章では出てくるけれど写真が出てこないなーと諦めかけたとき、国立映画アーカイブのウェブページにこんなものが。
NFAJデジタル展示室
スチル写真で見る「失われた映画たち」- 小津安二郎監督篇
『エロ神の怨霊』(1930年)

Copyright© National Film Archive of Japan
なんと、キング・オブ・キングスのボトルを持っている!
1930年の映画なので、正木博士のラッパの4年後だけど、この際それは許容範囲ということで。
↑しかも印字が良く見えるように正面で持っていてくださる。1960年代以降のデザインと違う。一番大きな違いは、中央のマークが冠ではなく王様の横顔である、という点。
取っ手部分も見たいなと思ったら、違う写真に写っていた。

Copyright© National Film Archive of Japan
↑全体の形もこれでばっちり。ボトルの形状にはあまり変化が見られない。もしかしたら微妙に違うのかも知れないけれど、この写真では大体同じように見える。正木博士はこの取っ手をつかみ、ボトルから直飲みしたと思われる。
キング・オブ・キングスは高級酒ですが、夢野久作や林芙美子の小説、小津安二郎の映画に出てくるので、当時は今よりも知名度のあるウイスキーだったのでしょうか。
時代考証ができる写真が見つかって大変良かった。この映画のネガ・プリントは失われ、スチル写真だけが残っているそうです。戦前からスチル写真を保存してきたキネマ旬報社、そのような資料を公開している国立映画アーカイブ、ありがたい!
夢野久作の小説『ドグラ・マグラ』の絵を描くためのプチリサーチ(1)
◆正木博士が居眠りをする場面で、若林博士と会う前に読んでいた新聞とは?
【場所】九州帝国大学精神病学教室本館階上、教授室
【日時】大正15年(1926)5月2日 午後3時頃
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正面の大卓子と、大暖炉との中間に在る、巨大な肘掛回転椅子に乗っかった正木博士は、白い診察服の右手の指に葉巻の消えたのを挟み、左には当日の新聞紙を掴みながら鼻眼鏡をかけたままコクリコクリと居睡りをしております。トント外国の漫画に出てまいります屁っぽこドクトルそのままで……読みさしの新聞の裏面に「花嫁殺し迷宮に入る」という標題が、初号三段抜きで掲げてありますところを特に大うつしにして御覧に入れておきます。そのうちに大暖炉の上の電気時計の針が、カチリと音を立てて三時三分を指しますと、大学のお仕着せを着た四十恰好の頭を分けた小使が、一葉の名刺を持って這入って来て、恭しく正木博士の前に捧げました。
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というわけで、まずインターネットで「大正時代 新聞 福岡」などと検索すると、国立国会図書館「リサーチ・ナビ」内の「明治・大正時代の主な新聞とその参考文献(西日本)」というページにたどり着いた。そこで九州の欄を見ていくと、大正15年の時点で福岡県で発行されていたメジャーな新聞は「九州日報」と「福岡日日新聞」の二紙っぽい。実際に紙面を見るために永田町にある国立国会図書館に行ってみた。
国立国会図書館は国会議事堂のすぐ近くにある巨大な図書館で、身分証明書があればその場で登録利用者カードを作ってくれる。個人への本の貸出はしていないので館内で閲覧しないといけないけど複写サービスがある。新聞資料室に行き、大正15年5月の「九州日報」と「福岡日日新聞」を申し込むと、貸出カウンターでフィルムのロールを渡されるので専用の機械で見る(古い新聞はマイクロ写真で保存されている)。
大正15年5月2日の各朝刊一面を、A3用紙に複写してもらったのがこれ↓
(この日は日曜だ。正木博士、若林博士、小使は日曜日に大学にいたのですね)
九州日報の紙面の方がなんとなく面白そう、というテキトーな理由で正木博士が読んでいたのは九州日報である、ということにする。夢野久作は九州日報で記者をしていたし。
では九州日報のどのページに『花嫁殺し迷宮に入る』の記事が載っていたか。一面は政治とか全国ニュース的な記事で、中面をみていくとP5に社会面的な記事が載っている。味噌汁にナントカ水を混ぜて親戚みなごろしを企つとか、子を伴れて姦夫と家出とか。
「花嫁殺し迷宮に入る」という標題が、「初号三段抜き」で掲げてあるということですが、コトバンクによると「初号」は「号数活字の中で最大のもの。42ポイントに相当」、「三段抜き」とは「新聞の紙面で大きなニュースを伝えるため、三段にわたる長さに組んだ見出し」だそうです。紙面右上の「福博全市歓楽に醉ふ」なんかは正に、初号三段抜きなのでは?
あと、正木博士が読んでいたのは朝刊だと思い込んでいたけど、もしかすると夕刊かもという問題がありますが、それはまた後で。
パリにある本屋さん、Un Regard Moderneで開催されている『おっぱいから流れるセーヌ川の水』展に参加しています。
この本屋さんの前でウィリアム・バロウズが『裸のランチ』を書いたそうで、展覧会のタイトルもそこから来ています。
Exposition Grosse Victime Magazine
“De l’eau de la Seine dans les tétons”
January 10 – February 10, 2024
Un Regard Moderne
10 Rue Gît-le-Cœur, 75006 Paris
今日は小豆を煮ながら、『奇妙な孤島の物語:私が行ったことのない、生涯行くこともないだろう50の島』(ユーディット・シャランスキー/著)を読んでいた。あんこと孤島。聞いたこともない島の名前が目次に並ぶなか、特にハウランド島のページを熱心に見た。太平洋に浮かぶ無人島、小豆みたいに小さいハウランド島。1937年7月2日の朝、この島を目指してニューギニア島を飛び立ったけれど、到着することのなかったアメリア・イアハート。
10年くらい前にスコットランドのエディンバラを訪れたとき、Mercat Toursが主催する地下の穴倉ツアー(Blair Street Underground Vaults)に参加した。これはどういうツアーかというと、18世紀末に出来たサウス・ブリッジという道路兼橋の地下にあるたくさんの穴蔵を、案内人と一緒に歩いて見学するものです。その穴蔵は、時代により倉庫や工房、ワイン(クラレット)セラーや酒場として使われ、徐々に密造酒造りや墓泥棒が一時的に死体を隠すような犯罪の巣窟となり、19世紀にはスラムの中でも最下層の人々が住み着くようになったという。第二次世界大戦中には防空壕としても使われたが、瓦礫に埋もれたりして長い間忘れ去られ、商売にしようと思った人達が入口を発見して中を整備し始めた1980年代に再び日の目を見る。
私が参加したのは10人位のツアーで、夜の8時頃になんとかいう広場に一度集まってから路地にある小さな入口より階段で地下に降りた。大学生のような若い男性の案内人が、俳優を目指しているのかなというぐらい熱の入った演技とともに説明してくれた(墓泥棒がスコップで墓を掘り続ける演技とか)。穴蔵が続く狭い通路は、最小限のオレンジ色の照明で薄暗く、200年以上の陽気とは言えない歴史の重みがそこら中の石壁に染み付いているようで、ここに一人で取り残されたら…と想像すると怖い。酒場だった時はよく牡蠣を供していたそうで、牡蠣の殻などが見つかるという。現代でもここでパブとかやったら結構ムーディーで人気が出そうな感じもするが、私としては行きたいような行きたくないような。ここの雰囲気があまりにリアルなので。穴倉から出土した遺物をみせてくれる部屋もあり、その中に19世紀のランプ用の魚油があった。当時のままのガラス瓶に入っており案内人がフタを開けて匂いを嗅がせてくれて、ものすごく酸化した匂いがした。魚油ランプは煙や匂いがひどく、さらに換気の悪い穴蔵で使われて健康にも良くなかったという。他に覚えているのは、年代不詳のピストルの形をしたガラスのおもちゃなど。ここに住んでいた19世紀の一家の子どもの持ち物だったのか、20世紀の防空壕時代の子どもなのか。ホテルへの帰り道、夜の石畳を歩きながら、亡霊が地下からついてきていないかしばらく不安だった(歴史好きな人やダークで変わった趣が好きな人にはおすすめのツアーです。オフィシャルガイドブックが充実した内容なので、チケットと一緒に買うとさらに面白い)。
黄砂の時期になると、はるばるゴビ砂漠やタクラマカン砂漠から日本まで砂が飛んでくるなんてすごいなと思ったりする。「ゴビ砂漠」「タクラマカン砂漠」という響きがとてもエキゾチックで、シルクロードとか昔の探検家などを思い起こす。子どもの頃に『スウェン・ヘディンと桜蘭王国展』というのに行った。一番覚えている展示物が、スウェン・ヘディンの長靴。タクラマカン砂漠を横断している途中で水が尽き、ラクダの尿を長靴で飲んだとか、生きられるぎりぎりのところでついに水たまりをみつけ、またもや長靴で水を飲んだなど、過酷な旅で生死をともにし、コップがわりにもなったボロボロの茶色の革の長靴。
夜に出発の飛行機で東京からヨーロッパ方面に行った時、時差に向かって飛んでいるのでずーっと夜だった。夜に向かって飛んで、いつまでも夜だった。窓の下はモンゴルや中央アジアの暗闇で、時たま二、三個の丸い灯りが見えることがあった。見える度に、前の座席のスクリーンにリアルタイムで写しだされる飛行ルートを確認して、どこの上空を飛んでいるのか知ろうとした。私は飛行機の席は必ず窓際を取り、外の景色に貼り付いていることが多いので、灯りが見える度に、あそこに人が住んでいるのかな、周りはこんなに暗くて何もなさそうだけど何をしている人達なんだろう、私はあの人たちの灯りをいま見ているけど向こうはこちらの飛行機の灯りを見ているんだろうか、などと想像していた。深い闇の中に浮かぶ小さな灯りに、ささやかな人の営みの気配と親近感を抱いた。
モンゴルの遊牧民を訪れた日本人の紀行文が、中学校の国語の教科書に載っていた。著者の名前を思い出せないけれど、大草原の星空に圧倒された、空を横切る人工衛星まで肉眼で見ることが出来た、という内容の文章があった。あまりに澄んでいるので、人工衛星の通過音まで聞こえてきそうだ、とたしか書いてあってものすごく印象に残った。どういう音か分からないけど、なんとなく、とてもささやかな機械音というか、金属音のようなのがカタカタ聞こえてきそうな感じがした。実際、人工衛星がそういう音を立てるのか不明だけど。それほど空気が澄んでいて、どこよりも暗い夜空に、カタカタ音をたてながらスーと動いて行く人工衛星というのが、とても詩的でロマンチックだと思った。
テレパシーらしきもので(ちょっと分からないけど)、このような形のUFOを頭の中で見た。
(上)UFOの中から網目のある窓越しに外を見ると、満天の星が見えた。
(下)別の宇宙船からUFOをみた様子。一番下の出っ張りをつい描いてしまったが、なかったかも。
元旦に有楽町でアキ・カウリスマキの『枯れ葉』を観る。年末年始とアキ・カウリスマキは、結構合う組み合わせだと思う。劇中、主人公二人が映画館でジム・ジャームッシュ監督の『デッド・ドント・ダイ』を観る場面があった。ブレッソンやゴダールの『はなればなれ』に匹敵する、などと観客が感想を言いあったり、「あんなに笑ったのは久しぶりよ」とか主人公に言わせたりして、アキ・カウリスマキはジム・ジャームッシュをほめちぎっていた。映画の途中で小さい揺れを感じ、結構長かったので少し怖かった。家に帰ってから、それが能登の方の地震だったと知った。
「黒い森のサクランボケーキ」というものがあるのを初めて知った。フェルディナント・フォン・シーラッハの短編集『カールの降誕祭』の「パン屋の主人」という話に、黒い森のサクランボケーキを作るのが得意な主人公が出てくる。
「あのケーキの味はな、キルシュヴァッサーで決まるんだ。良質のキルシュヴァッサーを使わなくちゃいけない。色の濃い黒い森のサクランボだけを原料にしたやつだ。そのキルシュヴァッサーとサワーチェリージュース、このふたつが決め手さ。けちけちしちゃいけない。それが秘訣なんだよ」(酒寄進一/訳・東京創元社)
ドイツの黒い森地方(という地方があることも知らなかった)で採れたサクランボを使うそうだけど、「黒い森」という響きにグリム童話の魔法を感じるし、アメリカンチェリーが好きで、チェリー味だったら何でも一応惹かれるので、これはとても魅力的なケーキだと思う。2024年は、このケーキを食べたい。(実物はもちろんこの絵のようにケーキの上に木が生えているわけではないです)
小学生の時、学校の校門前に、消しゴムを並べた机とおばさんが出現する時があった。消しゴムは当時「辞書消し」と呼ばれていたもので、ミニチュアの国語辞典に似せて作られた、紙ケース付きのものだった。あまり消えなくて、こするほど汚れるような使い物にならない消しゴムだった。おばさんの目的は消しゴムを売ることではなく、学習教材の注文をとることで、「辞書消し」はおまけだった。普通の小さい「辞書消し」もあれば、ジャンボサイズの「辞書消し」もあって、放課後に校門を出た小学生たちが辞書消しにつられて机に群がった。または無視して歩き去った。
今思い返すと、真正面の構図で「机」と「物売り」というのは、少し謎めいた光景というか、不思議な物を売る人、インチキ商売、狐か狸が化けた商人、数時間後にはいなくなる幻のような物売り、そういう「怪しい路上売り」を象徴する私の原風景のような感じがする。
小学校の時、同級生数人で空き家探検をした。古い木造の廃屋で、中は暗く柱もぼろぼろだった。一階をうろうろしていると、突然ズボッと大きな音がして天井から男の子の片脚が飛び出してきた。二階を歩いていた大木君の脚が、腐った木の床を突き抜けてぶら下がった状態になったのである。その頃の小学生男子は、なぜかとても短い半ズボンを履いていた(最近は全く見なくなった)。ほの白い生脚一本が、薄暗い天井からにょっきり生えている異様な光景が、目に焼き付いた。
初めて親の付き添いなしで夜に出かけたのは、ハレー彗星が来た時だった。小学校の同級生10人くらいで近所の公園に出かけ、彗星らしき星を探した。ジャングルジムに登って、クラスメイトや先生たちのうわさ話などをしながら夜空を見上げていた。すぐ近所とはいえ、子どもだけの冒険をしているようでわくわくした。この時にハレー彗星を見たかどうかは全然覚えていない。ジャングルジムに座ったり立ったりしている、男の子や女の子の黒いシルエットしか覚えていない。
(子どもの時は『グーニーズ』や『スタンド・バイ・ミー』みたいに、子どもだけの冒険みたいなのに憧れていた。しかも今調べて分かったが、『グーニーズ』は1985年、『スタンド・バイ・ミー』は1986年で、まさにハレー彗星と同じ時期だ)
小学校1年生の時に「よい子のクリスマス・パーティー」という子ども向けレコードを親に買ってもらった。白いレコード盤で、クラウン少女合唱団が歌うクリスマスの定番ソングが16曲入っていた。私はそれをとても気に入っていて、小学生のあいだ、ずっとそれしか聴かなかった。クリスマス時期だけではなく一年中、夏でも「もろびとこぞりて」とか聴いていた。カセットテープに録音して、夜寝る前にベッドの中で「アヴェ・マリア」をウォークマンで聴いて、感極まって涙を流したりした。まだそのレコードを持ってます。